私の書の師匠は、『 世間で 書道の先生、先生と呼ばれてる人間の中に どれだけの本物の書家がいるか疑問だ。』 と常々言っている。口癖である。長年師事しているこの先生は、書くことは勿論だが、文房四宝の墨について、硯について、筆について、紙について語らせたら学者だ。専門書も多数出版していて、知らないことがないと言っても過言ではない。私達のどんな疑問にも即座に対応してくれ 弟子達を迷わせることは決してナイ。私がどんなに逆立ちしたって太刀打ち出来る師匠ではなく、敵わないと思ったその時から私にはひとつ決めた事がある。「書道家」ではなく、「文字書き屋」になろうと。字書き屋でいいや、と。その頃から名刺にも「文字書き職人」と謳うようにした。
私の父は注文紳士服の仕立て業で職人だった。その職人という言葉の響きが何と懐かしく心地良かったことか。
書道界でてっぺんに登り詰めてやろうとか、全国展で次々賞を獲得し名を上げてやろう、だとかの野心は元々持ち合わせていなかったから、そう決めたらスゴク楽になったのを憶えている。注文してくれたお客様が喜んでくれたらそれだけでいいと思った。「書」なんて部屋のインテリアなんだから。書道家と商業デザインとは全く別の業種なんだから。と割り切ることに時間は掛からなかったし簡単だった。
でも最近、それは苦しいことから逃げているだけの自分が居たことに気付いてしまった。勉強することからただ逃げていただけだと。それは、美大を目指していた高校時代、家の経済的な状況を理由に受験さえも諦めてしまったあの時の自分とまるで同じだった。「字書き屋」という言葉に甘えて、もしかしたらもっともっと出来る事を自ら捨ててきたんじゃないだろうか。
今からでも間に合う事がある筈だ。もっと出来ることが。